公開:2011年4月25日
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[五日市鉄道 Itsukaichi Railway] 五日市鉄道は1925年4月21日に現在の五日市線のほぼ全線にあたる拝島仮駅(拝島駅の西方にあった)〜五日市駅間を開業させた鉄道会社で、その後1931年12月8日までに立川〜武蔵岩井駅間の本線と武蔵田中駅〜拝島多摩川駅〔貨〕の貨物支線、計21.9kmを敷設しました。その後1940年に同社は南武鉄道に合併、その後は南武鉄道五日市線となりましたが、1944年には国有化、国鉄五日市線となりました。そしてその1944年のうちに今回取り上げる立川〜拝島間と南拝島〜拝島多摩川間(当初起点だった武蔵田中駅は国有化時に廃止)は休止され、そのまま廃止されました。 現在立川〜拝島間の五日市鉄道(→南武鉄道→国鉄五日市線)廃線跡は半分以上の区間が道路などとして残っており、昭島市の保存へ向けた努力などもあり、廃止後60年以上を経過した現在でも往時の雰囲気を感じられます。 |
現在、五日市線の電車が東京、立川方面まで来るときには、五日市線の起点である拝島から立川まで、青梅線に直通します。しかし、約65年前、1944年の12月までは、五日市線も青梅線とは別に立川〜拝島間の路線を持っていました。現在の青梅線から見るとかなり南側、多摩川に近いところを迂回するようなルートで、その路線が敷かれた背景には、当時の五日市鉄道(五日市線の前身)の経営の主導権を浅野セメント(現:太平洋セメント)が持っていたことに由来します。同社が五日市鉄道の主導権を握ったのは、当時の五日市線の終点、武蔵岩井駅の付近にある勝峯(かつぼ)山いう石灰石鉱山に同社が注目したためで、同社はその鉱山から五日市鉄道、青梅電気鉄道(青梅線)、中央線、山手線、東海道線を経由して川崎の工場まで石灰石を運ぶために五日市鉄道の主導権を握りました。 《年表》
※拝島〜立川間以外の駅、停留場の開設、廃止、1944年10月11日以降の動きなどは省略しました。 《マップ》 このように、青梅線よりも遠回りで敷かれていました。拝島多摩川駅付近や南中神〜武蔵福島間の一部などでは跡がわからなくなっていますが、他のところではほとんど道路か線路に転用されています。 《リポート》 |