桐ヶ谷駅は東急池上線の大崎広小路〜戸越銀座間にかつて存在した駅です。
1922年の蒲田〜池上間の開業から徐々に路線を伸ばしていた池上電鉄は1927年に桐ヶ谷駅まで達しました。その時に終点駅として開業した桐ケ 谷駅は、2か月後には中間駅となりました。駅は第二京浜が東急池上線と交差する地点のすぐそばにあり(ただし、第二京浜の着工は1936年なので当時は第 二京浜はありませんでした)、周辺には桐ヶ谷斎場や中学校があったため、周辺住民の他にそれらへ向かう人がこの駅を利用していたようです。
桐ヶ谷駅のホームは1面2線の島式ホームで、駅の前後で周辺の地面の高さが大きく変わっているため、ホームの蒲田方は掘割の中、五反田方は地上に ありました。出入口は駅の蒲田方にあり、駅舎(周辺地面)とホームの高低差があるためホームへは階段で降りる構造でした。
中間駅となった後も桐ヶ谷駅は営業を続けていましたが、第二次世界大戦末期、1945年5月の東京大空襲で被害を受けたあと、同年7月には営業を 休止し、2度と営業を再開することがないまま1953年に廃止されました。駅施設への被害があったことや周辺が焦土と化したこと、隣駅との距離があまりな かったことなどが原因のようです。また、個人的な意見ですが、駅舎の構造が他駅の単純な地上駅舎に比べて複雑で、復旧作業が困難とみられたのかもしれませ ん。
1960年代に入ると、田園都市線の都心乗り入れ計画として、旗の台駅で池上線と田園都市線(現:大井町線)を接続し、桐ヶ谷駅を復活させて桐ヶ 谷〜五反田〜泉岳寺間に東急泉岳寺線を建設することが計画されました(既存の桐ヶ谷〜五反田間と大崎広小路駅は廃止)。当時は泉岳寺〜大和町(現:和光 市)間に地下鉄6号線(現:都営地下鉄三田線)が計画されていたので、これと併せて長津田〜旗の台〜桐ヶ谷〜泉岳寺〜都営地下鉄という路線網を作るつもり でしたが、結局東急は田園都市線を新玉川線(二子玉川〜渋谷間、現在は田園都市線に編入)経由で11号線(現:東京メトロ半蔵門線)に乗り入れさせること となり、桐ヶ谷駅が再び日の目を見ることはありませんでした。
現在、桐ヶ谷駅のあった部分の線路は直線化され(もともとは島式ホームだったので上下線の間が膨らんでいました)、線路側の痕跡はほとんど残って いません。しかし、ホームのあった部分だけ掘割が広くなっているほか、駅舎の痕跡や池上電鉄が建設した駅舎へのアプローチ道路などが今でも残っています。
駅の構造
駅跡周辺の概略図
駅は二つの道路に挟まれた位置にあり、そのうち北東側の道路とは踏切で、南西側の道路とは掘割で交差していました。そして駅舎は南西の道路と交差する付近
にあり、先述の通りホームへは階段で降りる構造でした。そのため駅舎から駅の北東側へ抜けるためには遠回りが必要で、その煩わしさをなくすため池上電鉄は
線路と平行に両道路をつなぐアプローチ道路を私道として建設し、駅北東部の住人の利便性を確保しました。
現在駅の痕跡はほとんど残っていませんが、掘割の法面に駅舎を載せるための基礎の跡と、池上電鉄が建設したアプローチ道路が現在でも残っています。
駅跡
駅跡を上(道路)から
駅跡の蒲田方で交差する道路から見下ろした、桐ヶ谷駅跡の掘割です。写真右奥に駅舎があり、左奥では駅の五反田方で道路と交差していました。写真右から中
央奥にかけての坂道が池上電鉄の建設したアプローチ道路です。
アプローチ道路
この写真はアプローチ道路を上側(駅舎のあった側)の入り口から見たものです。写真の中央付近に駅舎の入り口がありました。
アプローチ道路入口の標識
上の画像を見るだけでは何の変哲もない道路のようですが、入り口には「私道」と大きく書かれた標識が立っています。このアプローチ道路は、なんと現在でも
東急電鉄が保有する私道という扱いなのです。
アプローチ道路を改めて上から
今では路地の一つにすぎないこの道路が、70年前には駅からのアプローチ道路として活用されていたというのは不思議な感覚です。
駅跡を踏切から
駅の下の踏切から駅跡を撮った画像で、右奥が蒲田方で交差する道、左がアプローチ道路です。この付近だけ掘割の幅が広いのが確認できます。
踏切の五反田方(下り線側)
踏切の五反田方の線路わきの擁壁は、少し不自然に広がっています。ひょっとすると、駅があったころに駅前後の上下線間が広がっていた名残かもしれません
(戦術の通り、営業当時のホームは島式で、駅の休止後に線路は直進化された)。
駅跡蒲田方の擁壁
駅の蒲田方、当時駅舎があった部分には、現在でも駅舎を掘割の擁壁に固定していた基礎の跡が残っています。画像上に見える柵は、アプローチ道路のガード
レールです。
探訪後記
以上、桐ヶ谷駅跡の様子をお伝えしましたが、この駅には現在でも不明な部分が多く、営業当時の写真すらもありません。池上電鉄が建設した唯一の橋
上駅舎の駅(ただし、改札が線路やホームの上ではなく、階段を下りたホーム上や駅舎の道路側にあった可能性もあり、その場合には厳密な意味での橋上駅舎で
はない。しかし、いずれにせよ橋上駅舎に近い構造の駅であったことに変わりはない)ということもあって個人的にはもう少し詳しく知りたい駅ですが、資料が
少ないのは残念です。
また、もしも都営地下鉄の目論見通りに三田線計画が進み、東急泉岳寺線が実現していたら、と考えるといろいろな妄想に駆られてしまう、そんな駅でもあり
ます。
・ページのデータ
取材:2014年3月9日
公開:2014年5月20日
更新:公開後未更新